ちなみにマップのもとネタに
させていただいた
HommaさんのGPSデータ
こちら


夕方4時会社を早退して、車で出発。五所川原までの夜行バスはとることができず車で出発するハメに。金曜日の夕方の渋滞はすでに始まっており、川口を通過したのはすでに18時。日のあるうちにどれだけ距離を稼げるかが勝負というところ。しばらく流していると、後ろからBMW出現。これを先導役にして、東北道をひた走る。怖いのは車の故障と、警察だけ、という状態。事実この紀行を書いている現在、発煙して入院中なのだ。私のは昭和の車で、100キロ超のベルの音をこの後6時間以上聞き続けるハメに。なかなかもってかったるい。本州の最果ては、いかにも遠い。青森までの距離看板が二ケタになったときには感慨があった。

大鰐弘前で高速を降り、国道7号からさらに三桁国道に。五所川原を過ぎるとコンビニも空いているGSも無くなる。十三湖の道の駅にたどり着くと、テントが5張ほど。聞いてみると「姫神」のコンサートのためとのこと。昔、「姫神センセーション」といっていたシンセのバンドだ。午前2時ごろでだいぶ眠くなっていたので、蚊取り線香を配置し、コットを広げて仮眠。6時ごろ、起きてみるとシーカヤックをトップした車が見える。何回も参加しているという林直子さんに話を聞く。息子さんに車を運転してもらって、参加する、という。

朝7時ごろ、小泊村に着く。まだ眠い。集落センターでまたコットを拡げ仮眠。近所で1980円で買ったものだがなかなか役に立つ。11時ごろ起きだし、指定場所で船を組みだす。私の船は青のVOYGER450Tだ。幾人もの人が、シーカヤックを貸してくれるという申し出をしてくれたが、タイトな船では10時間は堪え難い。ベルーガを貸してくれるという嬉しい話もあったが、練習なしに他人の艇に乗るのはやはり怖い。

最初は3艇ほどだったが、三々五々人が集まってくる。お、ボイジャーの一人艇がいる。450Tもいるぞ。想像してたよりファルトが多い。これならカケロマのように悲しい一人旅にはならなくてすみそうだ。この時点で、速い艇を借りる誘惑を断ったことを後悔する気持ちは消えた。ファルト同士は、すぐ友達になれる。なんといっても組むのに時間がかかるもんだから。それでもみんなけっこう速い。オレはどうやらトロ過ぎるぞ。

船を組んで、水漏れ補修とラダー取り付けに入る。私の450Tは3年の使用で、すでに穴だらけ。しかしファルホーク純正補修テープははがれやすく、まともな補修ができていない。一時間に2リットルペースで水がしみ込んでくる。ここではテントや雨がっぱ用の3Mの防水テープを張り、その上から、黒のガムテで補修。実に雑だが試しに浮かべてみると浸水はない。どこまで持つかわからないが面倒なのでこれでよしとする。

次はラダーだ。ここ3年全く使用していない。使い初めてすぐ、ワイヤーが切れ、ワイヤーループがもげ、部品が欠落し、高い割に使い物にはならないと見限っていたが、明日は荒海。使う場面もあるだろうと、改造をはじめる。といっても、ワイヤーのかわりにネット補修用のほそびきを使用するだけ。なんとメートル15円のナメきった装備だ。ペダルをつけるのもおっくうなので、先をループにし、足にひっかける。長さを調整し、使用してみる。なかなかいい感じだ。耐久性は「?」だが、いや、どうせ、使うこともあるまい。

ミーティングまで時間があるので、近くの銭湯「浜の湯」に行く。珍しく番台から男湯、女湯すべてを見通せる古い作りだ。湯船からも番台が見える。聞いていた通り、湯は熱い。43度以上はあろう。上がって、冷蔵ケースをのぞく。ここはビン牛乳だ。それも雪印牛乳。「この牛乳は福島工場で作られ、安全」なんて細かく書かれた紙がゴムで留めてある。もちろん飲む。腰に手をあてて飲む。うまい。

ケースの中にはサイダーも入っている。「××シトロン」とか書いてある。地元のマイナーメーカーらしい。しかしビンには「三ツ矢サイダー」という浮き彫りが。これも飲む。ぐびぐびと飲む。うまい。素朴な味だ。値段は両方とも100円。ガラスのびんに直接口をつけて、サイダーを飲むなんて、何年ぶりだろう。800キロを走破して、のんびりとした休日が過ぎていく。

集落センターに戻ると、ミーティングが始まっていた。大広間に70人もの人が座っている。受付の時にもらったパンフを初めて開く。驚いたことに地図がいっさい載っていない。船長の説明とかは津軽弁でよくわからない。誰も「トイレをどうする」とかいうバカな質問はしてくれない。保険会社がカヌーを危険視して、死んでも700万円しか出ない、とか、「明日はたぶんダメ」とか、あんまり嬉しくない話題が続く。疑問符が山のようについたまま会合はお開き。

すぐに庭でBBQがはじまる。想像していた豚オフ状態ではなく、サザエ、ホタテ、イカの海鮮BBQ。そうだ、ここは漁港なんだ。ビールは缶を予定していたのだが、村人の好意で生ビールに変更になったとのこと。特に堅苦しい式もなく五月雨式に歓迎会がはじまる。食材は種類は少ないが豊富だ。弁当などを運ぶ大きなトレイ5〜6杯。とても食い切れる量ではない。

最初は慎重に焼いていたサザエだが、「まだ生きてるぞ」と誰かが言うや、一同、生で食べはじめる。フタの付近の、コリコリとしたサザエの食感。しかし「そんなもん喰ってる場合じゃない」。「ここは喰うところじゃないよね」といい放つ、かの有名な清水氏。取るのが難しいシッポの部分。内蔵、ここが実にウマイ。臭みはまったくなく、ほのかな苦味。つぼ焼きで味わうそれとはまったくの別物。目から鱗とはまさにこれだ。小指のテクをマスターした清水氏の手にかかった主のいない貝殻が次々と積み上げられていく。これを食べるだけでも津軽へきた価値があったというものだ。しかし、その気分を清水氏の一言が吹っ飛ばしてくれる。「いやあ、残念だなあ、もうビール飲めないや」「なんで?」「これから運転してかえんなきゃいけないから、じゃあ、頑張って、50キロ」

まさにこの人に「直線30キロだよ」「大丈夫、潮が後押ししてくれるんだから」とか言われて、ソノ気になってきてしまったファルト軍団に一気に不安が芽生える。とっとと就寝しなければ。消灯は22時。しかし21時にもならないのに、もう沈没している人がいる。外は霧がたちこめ、洗濯物も乾かない。明け方の寒気で風邪をこじらすのも最悪なので、窓を閉め、冷房を入れ、眠りに落ちる。


朝4時。なぜか目覚める。広間の大時計は壊れている。もう一寝入りするか、しゅん巡していると、突然目覚まし時計が鳴りだした。冷や汗だらだらで目覚まし時計を止める。「ごめんなさ〜〜い」と心の中であやまる。見回すと、バタバタと起きだしてきた。連鎖反応である。食事も5時からと言っていたが、5時前に第一陣は食べはじめられた。結局予想外の早起きだったが、準備や移動に時間がかかり、逆に予定通りの5時起床では間に合わなかったかも、である。本当に袋叩き一歩手前で、焦った、あせった。。

出発準備。水は3リットル。ほかに500ミリペットドリンクを2本、粉末バームを溶かしたものを1リットル。栄養ドリンクを2本。ウェイダーインゼリーを4袋。チョコレートとキャンディを各1。ひざの周りに適当に転がしておく。日焼け止めを顔に塗る。ふだんはしない腕時計を左手の内側に文字盤が来るようにはめる。奄美で仕入れた笠を頭にかぶる。サングラスになるダブルフレームメガネをバンドで固定する。日焼け対策で長そで、下はモンベルアウトレットで500円で買ったウェット半ズボン。上のインナーにはダクロンの下着をつける。防寒対策としてゴアテックスの雨ガッパを防水袋に入れる。デッキロープを装備していないので、ビルジポンプその他は、シート後方に置く。

予備パドルはデッキ後方にバイク用ゴムネットで固定。今回はテンペストの軽いパドルを予備に回し、いつも通りブレードに絵の入った、ニンバスのブレードの広いパドルを使う。両方とも木製だが、ウッドパドルは少数派のようだ。中にはやはりファルの4分割パドルを使用している人もいる。バックレストは長時間対策として、つり下げシートを購入したほか、マリブのヤックボード用ウレタンバックシートをKSフレームに固定した。今回は、浮力体、スプレー、コーミングカバーも純正品を装備している。カバーは日焼け対策に有効だが、スプレーはめんどっちいのではずしたままだ。ただ、ファルのそれは子供だましで、リジット艇のそれのように力もいらずはめられるのでとてもよい。ラダーのヒモもかけないで、転がしておく。せめて左右の区別がつくようにしておくんだった。どっちがどっちかわからない。まあ、いいや。

出発直前、選手宣誓のため「集合!」と言われたのを「出航」と聞き違えて走り出す。気づき戻るとすでに選手宣誓がはじまっている。そしてドラ。慌てて、ポケットから酔い止めを取りだし、飲む。転ばぬ先の杖だ。最初の2時間くらいは、時速4キロ弱のゆっくりとしたペースで進ませる、という話だったが、なに、そんなことはない。かなり速い。これではバテてしまう。2時間漕ぐにはいいペースだが、これでは10時間はとても持たぬ。K-1もベルーガもピッチは遅くともすいすい進んでいる。さすが50万円する船は違う。それからすればこちらは泥船だ。それでも最初の2時間ほどはかなり頑張って前の方にいた。それからはペースを落とした。だってリタイアはいやだもの。

漕いでいると、足がだるくなる。とくにお尻の付け根のあたりが重い。時々、デッキに腰かけ、フレームをそこにあてがって漕ぐ。デッキに登ると、かなり遠くを見られてよい。その上排泄もできてしまう。シーカヤックの人たちはいったいどうやっているんだろう? コクピットの中で足はかなり余裕がある。艇選択は成功のようだ。後ろを見るとマナティとノーティレイカナール416がはるかに遅れている。特にマナティはつらそうだ。何しろ全幅が1メートル近い。よほどの怪力の持ち主でなければ、シーカヤック軍団についていくのは難しい。

出発して2時間が過ぎるが、まだ権現崎が左手にある。ということは真西に進んでいるということだ。後方にいると、情報がまったく入らない。どこにいるかもわからない。船長同士の会話はスピーカーから時折聞こえてはくるものの、ネイティブの津軽弁はまったく意味不明なことばにしか聞こえない。「このままだとロシアにいっちゃうんじゃないの」と軽口を飛ばしながらも不安になる。いったい何十キロ漕ぐ羽目になるんだろうか。

無性に腹が減ってきた。でもまだまだ午前中だ。軟弱カヤッカーののっぽは、9時以前に漕ぎだすことはありません。しかたがないので、ゼリーを口にする。水も飲みたいが、時間がない。ちょっとでも漕ぐ手を休めると、すぐに、何十メートルも引き離されてしまう。そしてとても追いつくことはできない。精神的にはとてもつらくなってしまう。水を飲むのは少し、がまんしよう。

あまり景色が変わらないが、ちょっと風が冷たくなってきた。潮もあるようだ。うまく目指す方向に進めなくなってきた。リーンをしてみるが、とてもおいつかない。時々片漕ぎになる。前の方ではカナールの二人艇が大きく蛇行している。ラダーがついていないのだ。ここで、ラダーを降ろすことにした。ラダーの欠点は、ひざを曲げたままにしなければいけないことである。伸ばした状態で、ラダーのヒモを固定すると、どちらにも踏み込めないし、足を踏み込み続けていないと、潮の力で押し戻されるからだ。

太陽が全然照っておらず、風が強まってきたので、頭の笠を外してみた。笠が帆になっているように思えたからだ。しかし、これは失敗。パドルについた水が、風に乗り降ってくるのだ。メガネ人間にはこれは大敵で、眼鏡に潮がはりつくと、前がまったく見えなくなるのだ。みなさん、笠は必需品です。この後小雨もぱらつき、より利便性を実感することに。東北方面ではいくらでも手に入ります。土産物屋で。ただし笠にいろいろ字が書いてあったりしますが。

恐れていた風はたいしたことはない。奄美の岬を回る時のような強い風が吹き続けていたらどうしようと思ったのだが、むしろ心地良い。太陽はどこにあるかもわからぬような曇り空だが、漕いでいる限り、寒くはない。景色はなく、白っぽい空と、冷たそうな深い色の海ばかりだ。波はほとんどない。ベタ凪の部類だ。なんだか気持ち良くって、眠くなってきた。幸せな気分だ。たぶん酔い止めのせいもあるんだろう。大あくびをしながら、漕ぐ。ペースを守って漕ぐ。楽しい。主催の越智さんに感謝している。いろいろ危なっかしい運営だけど、そのおかげで僕らは海にいられるんだもの。

11時すぎの休憩はちょっと長めだ。ゆっくり追いついていくと、「お弁当、もらえるよ」と声をかけられる。オイオイ、飯ぐらいマイクで知らせてくれよな。止まったり、再スタートしたりの合図もないので、下を向いていると、いつの間にか取り残されていたりする。この辺が「いかにも手作り」だ。船に近づくときは風下から、とミーティングで習った通り、旗と逆側から回り込む。釣り船は大きく波打っている、ななめ30度に前後左右にふられている感じだ。こちらに向かって傾くときにぶつかったら、ファルトなどひとたまりもないだろう。近づいていったが気づいてくれない。「おーい」と叫んだらようやく、「弁当かーい」と振り返る。「タモで」という話だったが、投げてくれた。そりゃそうかもしれない。だってコーミングがガバッと的のように空いているんだもの。

このころから、波が大きくなっていった。大きな波だが周期は短く、上下運動がかなり激しい。シーカヤックは休憩になるとすぐいかだを組む。いっぽうファルトはよそ見をしようが、後ろをむこうが全然平気で1艇で浮かんでいる。船脚の遅いファルトは休むのに向いていて、速く進んでしまうリジットはやすみにくい。その2団が一緒に進むことに無理は大きい。しかし、シーカヤックの人たちは寛大だ。本当にありがたい。

進みだすと船のコントロールが難しいような大荒れ状態に突入した。事前のアナウンスがなく、私はあいかわらずスプレーをはずしたまま。コーミングカバーの後方もヒラヒラしている。他の船と接触すると転覆してしまうので、くっつかないようにしながら進む。しかし安定は悪くはない。「イーッハーッ!」と叫びながら、波を乗り越えて進んでいく。

と、右前方のリジットが沈をする。すぐに脱艇したが、水を飲んで苦しそうだ。しかし、レスキューの余裕はない。なにせコーミングが空いている状態で、水をかぶっているので、水船状態である。この上にかぶるとたいへんなことに。とりあえず、伴走船にパドルをたてたり腕をのばしたりして合図を送り、救助へ向かったところをみて、私は移動する。とこんどは左前の船が沈脱。さらにあちらこちらで伴走船が救助にあたっている。や、やばい。。。

そうこうするうちに先頭船が停止する。この状態では停止はキツイ。進んでいれば舵がとれるが、止まると横波を食らう可能性が高い。かといって逆行もつらい。船からの指示はよく聞こえない。右舷方向にいけとのこと。船自体も回っていて目標物がないので、進行方向がまったく不明になった。伴走船なしの横断の危険を目の当たりにしていた。いちおう船団のほとんどは大丈夫そうだったが、それでもこれ以上、沈が続けば、中止撤収は自明である。しかし、なんとか再出発。しばらくいくと波が急に静かになった。ならばここで停止すればよいのに、と思う。

この荒れていたところが「潮目」なのだと後から聞いた。右に行く潮と左に行く潮がぶつかるところ、というわけだ。しかも大潮の直後で、めったにない、ハンパじゃない状態、なのだそうだが、んなもん、やる前に教えとけよ、というところか。最大2メートル以上の落ち込みが連続する状態で、まさにファイトー! いっぱーつ! ハタから見たら(見られないが)そんななかにカヤックで突っ込むのはキチガイ沙汰だろう。

けれど、ファルト軍団は意外にも、スキルがない人も沈することなくほとんど無事で(沈したのは小泉さんだけ??)乗りきった。というより、船が乗りきってくれたというところか。二人艇も無事でレスキューにまわっていた。やはり荒れた海はファルトに限るのか? ただ各艇ともかなり水が浸入していたようだ。あとでわかったが、ボイジャーはデッキとボトムの縫い目からかなり水が浸入する。リーンはしてはいけないのだ。コクピットは水深すでに10センチ以上。ペットボトルやらがぷかぷか浮いている状態だ。外の喫水線とほとんど変わらない、ということは船底からこれ以上水が入る心配もあまりないわけだ。くみ出すのは体力を消耗するのでやめることにした。

うでがだるくなったので、パドルを軽い方に換えてみる。しかしこれは失敗。キャッチが少なくて進みがいよいよ遅くなってしまうのだ。また、交換。ひざを曲げる姿勢に疲れたので、ラダーを上げてしまう。しかしこれもその1時間後、あまりに片漕ぎが多くなったので再びつけることに。やはりラダーは強力な武器だ。構造自体は単純な方が故障も少ない。自作でもつけるべきである。

波は穏やかになったが霧が濃くなってきた。もう100メートル(20艇身)先も見えない。こんなときタンカーがのそっと現れたら大変なことだ。海峡横断は実に危険だ。よその船はレーダーと海図だけが頼りだろうが、我々はレーダーに映ることがない。海の上でひき逃げされたら一巻の終わりである。前方の船も後方の船もかすんできた。お互いに見失うとヤバイので、少し船足を落として、エンドラインまで下がる。エンドラインにはボイジャー360とベルーガ、フジタSGがいる。しばらく後ろにいたが、これ以上遅れると置いていかれそうな気がして、再び、気合いを入れて漕ぎだす。すると先頭集団が休んでいたので追いつき、ひと安心。

再スタートでまた下がったところ、なんと、エンドラインにいた3艇が見えない。しかも自分のすぐ後ろに後方船の「ことぶき丸」がいる。なんとなく、船の上の人が増えたようだ。「しまった強制リタイアさせられたか」と思う。霧は濃く、船団が長くなると見失う可能性も高く、その上情報もない状態なので、そう信じ込んでしまった。そこからの1時間近くは必死のスパート。後で聞くに2艇はリタイア、1艇は遅れたが伴走船がついていったということ。

なんとか地元参加の経験の浅いシーカヤックをとらえる。そしてまた1艇抜く。福島の二人艇をとらえ、安全圏に飛び込む。波高はやはり2メートルほどと大きく、周期が短いので上下運動ははげしい。うまく波に乗れると、ずいぶん速く進むことができる。もっとずっと大きなうねりを葉山で経験しているので、怖いことはない。むしろとても楽しい。するとしだいに霧が晴れてきた。空に山かげのようなものが何度か見えた気がした。

そして、ついに、明らかな稜線が。まぎれもない。北海道だ。しだいに稜線は長さをまし、そして街の屋根が見えはじめた。漕ぎながらも目頭が熱くなる。口がエヘラエヘラしてくる。なにものにもかえがたい嬉しさがこみあげる。海の向こうに陸が見えてくるというのは、はじめての体験だ。もう一息。漕ぎ手を休め、見回す。陸が右手方向に連なっているのが見える。遠くにパドルがきらめくのが見える。僕はボトルに残った水を飲みほすと、光を増した大地を目指して、最後のパドリングに入った。

上陸した私たちは、はっきり言って「ふ抜け」状態。船を畳むどころか、上までかつぎあげる気力すらない。そもそも水船で持ち上がらない。でも、まずは主催の国際海峡倶楽部の越智さんとがっちり握手。次は、トイレ。ふと見ると、公衆便所の脇に白杭が。いわく「伊能忠敬上陸の地」。ああ、潮に流されるとこうなるわけね。残念ながら目標とした松前町にはたどり着かず(歓迎隊がいたのかしらん?)、福島町にながされてしまったらしい。でも、横断の価値はちっとも下がらない。たとえ、松前町にエビやウニの生き踊りが待ちかまえていたとしても。

そして、待望の温泉。なによりのごちそうだ。食事。達成感にあふれた顔が並ぶ。リタイアした人は残念だろうな、とちょっと気がさす。それでも釣り船から見た、カヤックの横断風景も、釣り船での横断も、それはまた別のドラマだったようだ。漕いでいればわからないが、船上はぬれた身体は非常に寒く、機関で暖をとったり、大きく揺れて船酔いでおかしくなりそうだったこと、など。

食事の段になって、緊張が解けてきたのか、陸酔いする人が続出。最初、疲れか熱のせいか、と思っていたが、陸酔いと判明。ほんとうに部屋がぐるぐる回りだした。夕食にビールが一本ずつ配給される。しかし、ほとんどの人が飲み残している。こんな風景は初めてだ。しかも早々に席を立つ。しばらく、ほかのビールも飲み、小泉さんに連れられ、福島のみなさんと交流の時間。そうです、私がのっぽ です。以前はヒゲも長髪もありましたが、最近は毛がなくなってきてます(といってもかのさん状態ではないです)。

部屋に帰ると、布団が七組、川の字に。こういう光景はいつ以来だろう。しかもすでに沈没している人もいる。この日が20世紀最後の月食の日だということなど、すっかり意識の彼方に飛んでいる。けれど、幸か不幸か外は霧。みな気力も残っていない。53キロ漕いだのだから。実質9時間弱で53キロ。やはり時速6キロは出ている。潮の流れは速くても、その速さで浮遊物が流れるわけではないのだから。逆に潮は抵抗となる。船脚の遅い船は、余計に距離を漕いでいることになる。


翌日、一行は、バスに乗り駅へ、そしてどらえもん列車へ。道中、昨日の上陸地点を見る。白い波が見える。途中サイロが見える。北海道の実感がようやくわいてくる。トンネルを抜けて青森に戻る。小泊は今日も天気が悪い。ファルトを畳み終わるころ、何度か予告編があったのちに本格的に雨が降りだした。低気圧が本格的にかぶってきたのだ。ぎりぎりでの横断達成に感謝しないわけにはいかない。きっと行いがよかった人が多いのだろう。

村から、一人、また一人とカヤッカーが散っていく。ついに集合写真を撮りそこねた。航海中はシャッターの余裕もなかった。しかし、思い出は確実に刻まれた。また、どこかの海で、あるいは川で、きっと再会することになるでしょう。最後まで気持ち良く、おつきあいしていただいたカヤッカーのみなさん、本当にありがとうございます。そして、運営にたずさわった橋本さんをはじめとする小泊村のみなさん、国際海峡倶楽部の越智さん、後援のミナミさんには感謝です。次回は2年後にできたらなあ、ということ。経済的にはなかなか負担ですし、天候の保証もありませんが、一度はトライされることをおすすめします。きっと素晴らしい体験ができると思います。

のっぽ



津軽海峡横断の記念品が届きました(すばらしいです)。
投稿者:のっぽ 投稿日:2000/09/06(Wed)

のっぽ です。昨日帰宅しましたら、津軽海峡横断トライアルの完漕証明書がワレモノ宅急便で到着していました。
内容は、証明書とお手紙、そして大会に間に合わなかった真新しいゼッケンとTシャツでした。
証明書は木の上に墨書と写真があしらわれた、額入りの立派なものです。いわく「直線34キロ、潮なり60キロ」と。まあ、60キロというのはちょっとサービスかもしれませんが。
Tシャツは今回のルート(実航行ルート)が座標入りで地図の上に赤線が引いてあるデザインです。あらかじめの予定稿ではなく、実際に今回GPSでとったルートのようです。
こんな立派なものが貰えるなんて、、感動ひとしおです。遠征費用35000円も安すぎる感じです。今回完漕されなかったかた、非常に残念でした(何を貰えたのかはわかりませんが)が、ぜひ2年後、また証明書を手にするまでがんばってください。失敗が多いほど成功の喜びは大きいはずですから。
小泊の実行委員会のみなさま、そして国際海峡倶楽部の越智さん、この場をかりて改めてお礼申し上げます。またぜひ開催してください。

こちらがそのシャツと記念書(クリックすると拡大)

津軽海峡の横断レポート、「津軽紀行」はのっぽさんの作品です。
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