(1)



プロローグ

黄色いデッキのシーカヤックが、群青の海を疾走している。全速で漕いでいるふうではない。波に乗り、波の後押しを受けて進む。ここは津軽海峡まっただなかだ。波もうねりも、もちろんある。カヤックの白いボトムは時折剥き出しにはなるが、危なげはない。波が去ると、漕ぎを休め、後ろを見る。次の波をとらえると、一気にアクセルする。そのとき、カヤックは人の力以上に前に進むことができる。シーカヤックとはこのように波を切って進むのか、と思わせる走りだ。
一番の難所とされる潮目のひとつは通り過ぎた。波は先程よりゆるやかなのだ。風も心地よい。波頭は風にあおられ、自然の織り成すじゅうたん模様のアクセントになって、ところどころ白く光る。しかしそれももう崩れてはいない。はっきりした深い青、揺れ動く波模様がどこまでも続く。水平線にぼんやりとした雲。その上方に北海道の山の稜線が、うっすらと、いや、かなりはっきりと見えている。カヤックはその地を目指して快走する。
小泊港を午前6時40分に出たカヤックは、津軽海峡を半ば横断し、もう北海道側のエリアに入ったのだ。一人走るカヤックに、後方からようやく追いついて、すぐ横を走る伴走の釣り舟に乗った何人もから、声が飛ぶ。風もあり、声が聞こえている風はない。応援だろうか。どこからこれだけの人々が応援団として現れたのか。カヤックの男は、コントロールを失わないようにしつつ、ちらりとサングラスの奥で船を見やる。船の男たちはそのたくましい腕で、大きくバッテンのサインを作る。終わりだ。まず男が、そして、カヤックが船に引き上げられる。彼は最後の男として引き上げられた。こうして、2002年の「津軽海峡横断カヌートライアル」は終了した。出発から4時間もたたずに終了した。





2年前、西暦2000年の津軽海峡横断トライアルで、無事に横断を果たした私は、この達成感をもう一度味わいたい、そしてまた、特に津軽海峡横断ということに畏怖の念と強い憧れを持つようなカヤックの仲間たちに、同じような感激を共有してもらいたい、と思うようになった。さまざまなイベントの中でも、このトライアルは、それだけ強い印象を残した。通常安全第一で運行されるイベントだが、津軽海峡では安全ということはない。なにしろ海峡なのだ。海峡には強い潮の流れがある。そして潮と潮がぶつかり合うポイントもある。そこは潮目となって、常に荒れている。このただ中に、アルミに布をはっただけのカヤックで飛び込むというのは、常人の安全という意識の中からはまったく外れている。危険というより無謀とも映る。
人はある極限状態の中でしか学べないこともある。前回の横断の際は、それを学んだようにも思う。抽象的には、精神力や気合というものが、人間の体力をどれだけカバーしていけるのか、という体験。もっと細かな具体的なものとしては、静水でのセルフレスキューの経験などほとんど役に立たないこと、経験者であっても、ストイックなまでに体調を管理しなければ、安易に目標を達成することはできないこと、などである。
前回のときも、天候は必ずしも良くなかった。実際に海に出たときも、頭につけたくば笠が飛びそうになる、強い向かい風が吹きつけていた。前日夜は港は霧で包まれていたし、雨もぱらついた。「明日はおそらくだめだろう」 夜遅くまでグラスを傾けていた人の中には、体調不良で船酔いになる人や、リタイヤする人も出た。
実際には海でそれほどの長距離を漕いだことのない人も、参加者の中にはいた。多くは完漕できたが、できなかったものもいた。大きな落差のある波、しかもそれが崩れ、いちめんに白くなっていた潮目の状況に、恐怖した人もいただろう。その恐怖を「船長のプライド」で押さえ込んだのも、また私の体験なのだ。よけいなことを考えた瞬間に、恐怖し、気分が悪くなり、艇はバランスを失うに違いない。あるいは、ざんぶ、とくずれた波をかぶった瞬間、あわてて、最悪の事態を招くかもしれない。
前回、私はボイジャー450Tというファルトの二人艇を一人で乗ってこのイベントに参加した。当時の私の経験年数は6年。しかし、こと海ということになると、実際は十数回程度に過ぎず、しかもその経験のほとんどはべた凪の状況でのものだった。すなわち、経験一年未満の人よりはるかにスキル的には劣っていたのだ。いわゆるシーカヤックそのものに乗って10キロ以上の距離を漕ぐような経験は、その時点ではわずか一回。その一回というのが三浦半島シーカヤックラリーでの第一位、というものだったのだ。
距離を漕ぐ、ということに関しては、それなりに経験を積んではいるが、揺れている水の上での経験値はゼロに近い。ロールはできないし、しようとも思っていない。沈脱再上艇も、湖と川で練習したのみである。ただ、自艇ではじめて出た葉山の海は、大きなうねりが入っていた。非常に大きく、2メートルあろうかという高低差。なにしろ20メートル前を漕いでいる人がまったく見えなくなり、その状態がしばらく続く。一方、持ち上げられたときは周りを見渡せるが、そのエレベータ効果で気分が悪くなる。そのはじめてのとき、酔い止めの薬を持ってこなかったことを後悔し、それ以降は必ず飲むようにしているが、そのときは思いもつかなかった。しかしその気分の悪さは、自分を追い込み必死になることと「船長の誇り」で切り抜けた。気合というやつだ。
身長185センチ。体格に恵まれているように見える私は、運動というものが大の苦手だった。高校までは本の虫だったし、小学生のころは週に10冊以上の本を読んでいた。高校生の時に、身長はすでに185センチだったのだが、体重はわずかに62キロ。衣服を脱げば骨皮筋エ門。スポーツへの興味がないわけではなかったが、団体行動が大の苦手。根性とか気合とかとはほとんど無縁の世界にいたのだ。
背の高い人間を捕まえては、バスケをしていたかバレーをしていたかとたずねるのは、いったいどういう風習なのだろう。黒人を捕まえて、お前はラップが好きだろう、というようなものではないのか。幼いころから、一番後ろに並ばされたことしかなかった私は、その、のっぽ=運動選手、という図式を嫌っていた。誰も好きでのっぽになったわけではない。私はちびになりたかった。私の通った小学校では、背が高いということで、優遇処置があるわけではなかった。跳び箱は、一番背の低い人が飛べる高さに設定された。私もそれを飛ばされ、自分の腰位置よりも低いところに手をつき、マットに頭から突っ込んで呼吸ができなくなった。そうしたこともあって運動はどんどん嫌いになっていった。
それよりも、私は、アーサー・ランサムという英国の作家の、少年冒険小説に強く惹かれていた。大英帝国時代のイギリスの北部、湖沼地帯に住む、英国海軍の父を持つ子供たちの冒険シリーズだった。彼らとその友人たちは、二人乗りのヨットを軍艦に見立てて、湖を冒険して回るのだ。ジョンは船長だしスーザンは航海士だ。本の中はヨットや航海の用語で満ち溢れ、彼らだけの世界を感じることができた。
10冊のシリーズ本の中には、「海に出るつもりじゃなかった」という大冒険篇も含まれている。イギリスの港に係留されている2本マストで船室もあるヨットが、大人である船長が街に出かけて事故にあっている間、錨が切れて、港を出てしまったのだ。そこに乗っていたのはジョンたち子供たちばかり。彼らは、幼いながら軍隊式の規律の元に船を見事にコントロールして、北海を横断し、オランダに渡ったのである。
このシリーズは、本の虫だった、私の思いを海や湖へ駆り立てるには十分だった。しかしあいにく、私にはヨットを所有している叔父もいなければ、湖に別荘を持っている叔母とも親交がなかった。そして海は、けして楽しい場所などではなかった。それでも、海洋少年団というボウイ・スカートのような組織に入り、手旗信号を覚えては悦にいったり、船の科学館で笹川良一に全員整列で敬礼したり、武道館のすぐそばのお堀である、千鳥ヶ淵で、カッターという細長い11人乗りのローイングボートを操船したりするのが楽しみだった。
大学生の時には、このイギリスの湖沼地帯を訪ねてみようと思った。それ以外にも物語でしか知ることのない街をいろいろと回ってみようと思っていた私は、約一ヶ月かけて、西欧の13カ国を鉄道で周り、そうして、ドーバー海峡の連絡船に真夜中に乗った。
一ヶ月の旅行の間に、私も多少は英語が話せるようになっていたので、船の中で英国人女性に、自分が英国に行きたいわけを話した。「ツバメ号とアマゾン号」だと。しかし私は原題をしらなかった。「スワローアンドアマゾン」。そう、私は発音した。すると、彼女は、「オー! スワローアンドアマゾン! アイガレッ!」と言った。この小説がどれだけ本国で有名なのかは知るところではないが、しかし大金星だったのだ。
彼女が言うには、この物語はイギリスの湖水地方のものであるということ。そこはロンドンからはるかに離れているということ。そしてウィンダミアという湖があり、そこがモデルらしいということ。これだけの情報を得ることができる人を捕まえられたことはなんと言う偶然だろう。たとえば日韓連絡船のビートル二号のなかで、「漱石の坊ちゃんのふるさとを訪ねたい」という人に正確な情報を教えられる人がどれだけいるだろうか。
イギリスにつくと、私はすぐにAVISに行き車を借りた。一番安いちんけな車はアイドリングが一定せず、その後、別の町で交渉して取り替えてもらった車は、ハンドルをまっすぐにすると左に曲がっていく車だった。そんな車で、私は一人でイギリスの田園地帯をひたすらに走った。農薬の使用量が少ないのか、虫がやたらに多く、ウィンドウガラスは、一面にはりついた虫で覆われてしまった。
ウィンダミアは想像していたより、はるかにメルヘンチックな場所だった。山々の間から美しい湖が顔を出したときには本当にうれしくなった。今でも天気のいい日に周りを走る道路から、芦ノ湖や野尻湖が顔を出した瞬間に同じような気分を覚える。ウィンダミアの周りは放牧地帯で、縦横無尽に羊を囲い込む石垣が緑で覆われた山の上を巡っている。そして羊たちが綿帽子のように見えている。山には高い木はほとんどなく、さすがにパステルカラーとはいかないものの、子供の描く風景のように、きれいに緑で包まれている。
ウィンダミアはジョンが書いた地図のように細長い湖だ。アンブルウッドという一方の岸にある、こぎれいなユースホステルに私はとまることにした。このユースも、ほかのユースに泊まったとき、同室のドイツ人から「ここはお勧めだだよ」といわれたところだ。かなり大きなこのYHには、オリジナルグッズを販売しているコーナーもあった。小さな鏡などを買った。
湖の周りを車で走る。ツバメ号とアマゾン号を記念するようなものは見当たらない。それでも本屋で、原書を手に入れることができた。だが、特別な反応はなかった。それよりも妙に日本人の女子大学生が多い。どういうことだろう。その理由は早くにわかった。ここはピーターラビットのふるさととして知られていたのだ。街としては軍国時代の物語よりもピーターラビットの方が観光資源としてふさわしいと思ったのだろう。そして、どの日本人もランサムのことはまったく知らなかった。
湖のほとりで、しかしちょっと休んでいると、小学生ぐらいの小さな子供たちが、なるほどヨットを扱っている。二枚の帆しかない昔風のヨットだが、それでも器用に準備して、帆走をはじめた。青の湖に、小さな白いヨットと帆が映える。その存在こそ、物語である。私はこの湖に、ただ湖を眺めるために2日間いたのだ。