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はじめてのフォールディングカヤックを買うことを薦められたとき、私はすぐさまボイジャー450Tの購入を決断した。しかもラダー付きで。これは、川と湖に数回行っただけということを知っている、私にカヤックを紹介した人は意外そうな顔をした。「海に行きたいんだ」という私の言葉に、しかし彼は納得し、一番安い方法でフネを入手してくれた。帆をつけられそうにも思ったことも、思いに後押しをしている。
そういうなかで、津軽海峡横断に参加したのは、私にとっては必然である。中学生のころにネオテッちゃんだった私は、大学の時には単なる旅行好きになっており、現在も年間十数回の海外旅行をしている。大学のころは当然国内がほとんどで、青春18キップや周遊券を使って車中泊を繰り返していた。そのころの津軽海峡はまだトンネルがなく、横断するためには、青函連絡船を使わなくてはならなかった。私はこれに計4回乗ったのだが、「北海道に行くぞう!」という心の高まりを演出するのに格好の乗り物として記憶に残った。そしてたびたび船酔いに苦しめられ、いかに海峡を横断するのが大変なのか、心に強く刷り込まれた。
それだからこそ、今回の横断に際しても、私はずいぶん前から準備をはじめることとなった。昨年一年間はほとんど長距離を漕ぐことなく、三浦の海にはついにまともに漕ぐことはなかった。川も怠惰に下るだけであり、芦ノ湖のみが、唯一十キロ以上を確実にパドリングする場だったのだ。当然、体力、筋力も弱っている。背筋は3/4ほどに衰え、腹筋はないも同然だ。体重と体脂肪は前回よりはるかに上回っている。
前回18パーセントだった体脂肪は23パーセントに、体重は4キロほどオーバーしていた。つまり脂肪だけが増えたような勘定だ。体脂肪率で見ると、体脂肪の増加のほとんどは体幹部、つまり腹である。CTで見ると、内臓脂肪が非常に多い。これはなんとかしなければ。まずは、減量、そして、ある時期から筋トレで力をつけよう、そうざっくりプログラムした。ところがこれは大きな間違いだった。
本来、持久系の筋肉は、その運動でしか鍛えることができない。パターン練習に近いものはあるにせよ、基本的に別の運動をすることで、そこで使う筋肉を効率的に鍛える方法はないのだ。むろん、たとえば腹筋が弱いことが、欠点であることがわかっていれば、腹筋だけを特別に負荷をかけて鍛えるということも必要なのだが、マシン系を使用するよりは同様の運動を連続させるほうが有利なのだ。
カヤックは、有酸素運動である。心拍120から140までぐらいを維持したまま数時間の運動が可能である。したがって長距離系のカヤッカーに肥満は見当たらないし、非常に引き締まったウエストを持つものも少なくない。特に安定性の悪いシーカヤックでは、常にバランスを取る必要があることから、よりシェイプアップが期待できる。バランスボールなどメじゃないのだ。
したがって、ごちゃごちゃ言わずに、すぐに毎週末40キロのカヤッキングを行うべきであった。平日は川を遡上してルームランナーをすることで鍛えるべきであった。しかしそれをしなかった。結果、減量には失敗し、体重は減らすどころか増えることに。体脂肪率は23パーセントをかろうじて切る程度で推移した。こちらも大きな変化は見られない。ただし左腕を中心に、ごくわずかの筋肉増強ははかられた。
ともあれ、持久力をもう一度アップするためのメニューは行った。一時間、プールを歩きつづけたあと、2時間エアロバイクを心拍を維持しつつ漕ぎつづける、ということも行った。あるいはスカッシュを二時間ぶっ続けで行う、というようなことも。
実地の練習も直前にはもちろんした。奄美のシーカヤックマラソンは前回同様に出てみた。ここでは別のフネを試す、前回とは違うパドルを試す、という目的もあったが、36キロを前回より速いペースで漕げたことで一応の確信を得ることができた。また、霧の芦ノ湖で漕ぐなどのこともした。久しぶりに葉山大浜-油壷往復もしてみた。ただ、最終的に、10時間、60キロを漕ぎつづける自信につながるところまではいかなかった。これも、実地練習へのとっかかりが遅すぎたことによるものである。
それでも、私はかなりストイックなまでに、海峡横断を意識していた。自分に納得がいかない失敗はしたくない、という気持ちである。そのため、前日は早くから港に行き、船の補修に時間をかけたし、宴会も早めに切り上げ、とっとと睡眠薬を飲んで強制スリープ、朝も起床時間前から起き出し、万端支度をして、朝食準備のすっかり整った宴会場に一番乗りしたのだ。
それに比べると、他の参加者は緊張感が薄かったといわざるを得ない。宴会で遅くまで飲むもの、ろれつが回らなくなるまで酔うもの、出発準備を整えることなく床につくもの、そして、当日朝、これからすぐに出なければならないと自覚していなかったもの。
むろん、私は体力に自信がないため、よりいっそう、その意識が強かった。体力に自信があり、経験豊富で自信があれば、それも許されるだろう。しかし、万一そうして失敗したとき、自分で納得が行くだろうか? 目の前の酒肴よりも、明日の目的のほうが大事なのではないか、そう考え私は早めに床についたのである。
参加者の中には、また別の決意を抱いて参加するものもいた。前回横断に失敗してリベンジを誓うもの、今回が最後だというデマを信じて無理をおして駆けつけたもの。大会の参加フィーは三万円。しかし、北海道側の旅館の費用やJR運賃はこれに含まれず、2昼食代などで一万5千円は各自余計にかかる。旅費などを合わせると、10万円を越える人もいる。その経済的な負担も、参加者にとってはハードルである。
参加者たちの意気込みに対し、はたして、このトライアルの主催者はそれに応えていたのだろうか。今回のトライアルの公募がいつ始まったのかも不明だし、いつ終わったかも不明だった。後に聞いた話では締め切りを一週間だか十日だか延長したとのコト。しかし、少なくとも私はそんなことは知らない。勝手に延長し、勝手に集まりすぎたと悩んでいる。しかし情報を聞いた人の中には、締め切りに間に合わないといってあきらめた人もいるだろう。これだけでも釈然としない。
さらに、「合格通知を受けたものはいついつまでに費用を支払え」とあるのだが、この合否判定が実にあいまい。というより、不合格者はいたのだろうか。どんな人だったのだろうか。合否判定するのに必要十分な情報を書く欄がそこにあったとは思えないのだ。その上この合格通知がさっぱり届かなかった人がいる。不審に思って電話をかけてみると、早く金を振り込めという指示。当然のごとく、金を振り込んでもまったくリプライがない。
前回よりましだったのは、こどまり村観光協会から、観光案内図などが送られてきたこと。これがなければ、一人で参加申し込みした人などは、不安で気が狂いかけるだろう。通常、こうしたイベントでは、交通の案内などがあってしかるべきである。五所川原まで品川からバスが出ているよ、とか、飛行機で来る場合は、とか。今回参加するのは初めてではないが、初めて公共交通機関を乗り継いできたという、あるショップの店長は、「五所川原から津軽鉄道に乗っても、結局、同じバスに乗ることになるのがわかった。しかも、バスには金額の上限があるから、津軽鉄道に乗らないほうが得だったんだ」とぼやいていたが、そうした情報すらなぜ出せないのか。本当に観光振興をする気があるのか、不可解でしかない。たぶん車か観光バスでくることしか想定していないのだろう。
前回も、そうだったが、はたして私たちは村人に歓迎されているのだろうか、と不思議に思う。たとえば、奄美のマラソンの場合は、「歓迎」という大看板が出る。五所川原の町には「歓迎日大相撲部合宿」なんて看板も出ている。だったらわれわれにだってそれぐらいのことはしてくれてもいいはずではないか。
もちろん看板一枚のことを言っているのではない。前日午後のイベントとして、前回は村民との交流のためのカヌー体験のようなものがあったが、今回はよくわからない形だった。さらに、出発当日の見送りは10人程度と非常にさびしいものだった。これではまるでかくれキリシタンではないか。あるいは、こっそりと黒船に密航しようとする長州藩士の船出のようだ。
さきに参加者が緊張感がなかった、と書いたが、これはむしろ参加者に緊張感を失わせたのはこうした主催側の態度だったとも考えられる。何より時間にルーズであった。前日昼過ぎに用意されていた何をやるのかよくわからない船検は午後4時に延期になったことを当日突然知らされた。しかし、午後3時すぎ、主催者が現れて、なにやらチェックシートを持って船置き場を巡回し始めた。それで船検が終了なのだという。4時船検というのは何だったのだろうか。そもそも50艇を1時間で検査することなどできたのだろうか。
5時からホールで予定されていた1時間ほどのミーティングは屋外での交流パーティーの冒頭に変更されていた。一時間のミーティングのかわりに10分程度の簡単な説明があっただけである。きょうび、2時間の自然観察ツーリングでも、もう少し諸注意というのがあるはずだ。ほとんど説明がなく、いきなり「質問をどうぞ」と言われても、すっかり宴会モードになっているときに質問するほど強心臓ではない。そもそも野外で声もとおりにくい。天候が芳しくないのにホールから野外になり、時間が変更になり、唯一まとまった情報をもらえるチャンスだと思っていたミーティングもあっという間に終了、というのでは、緊張感を欠くのもしかたがないところだ。
たとえば、通常のレースであれば、レース中、他人と接触してはならないというのが基本だ。他人の手助けをしてはならないし、妨害もいけない。津軽海峡横断の場合は、まとまってみんなで行くのだから手助けがあたりまえ、と私は前回の経験から思い込んでいた。しかし、それはこの場できちんと連絡する必要があったのではないか。この説明会では、「遅れた奴はどんどん拾い上げる」的な発言が突然あった。これは他人にかまうな、と言っているのに等しい。つまり手助けも無用、自分だけよければいい、という解釈もできよう。
とにかくこの時点で問題なのは、みなに必要十分な情報がぜんぜん行き届いていなかったこと、そして、それぞれの持つ情報量がばらばらであったこと、さらには憶測情報を一人歩きさせてしまったことである。安全のために必要な情報も、危険回避のためどうするかの情報もここでは一切話されなかった。休憩の合図も、休憩のタイミングも、大型船をやり過ごすための停止の合図も、サメ出現の合図も、食事の合図も、全員撤収の合図も何も話し合われなかった。釣り舟にはスピーカーがついていたのに、そうした重要な連絡はまったくそれで行われることがなかった。スピーカーからはまったく意味不明な津軽弁の船長同士の会話が流れていただけだ。
このミーティングの冒頭、主催者はこう質問した。「前回は松前に行くつもりで福島にいってしまったが、今回はあくまで松前を目指すということでよいですか?」この質問に明確に答えられる人はどれくらいいるだろう。つまり福島に行ってしまったのでは失敗なのだと。松前にいくためにはもっと全体のスピードをあげなければいけないだろう。すると遅い人は回収することになるよ、と。
しかし、そのスピードを上げる、というのがどの程度のスピードであるかもわからない。ただ、ファルトが大勢参加している以上、それほど速いスピードはありえない。おそらく時速6キロぐらいであろう、と私は踏んでいた。確認すればよかったのだが。楽観的すぎた。はじめから時速9キロが求められるならば、乗る艇の名前を見て、不合格通知をするだろうから、と思ったのが甘かった。主催はそんなことを考えてはいない。それは当日思い知った。
遅れる船には、乗船勧告を出す。一番後ろに私がいるから、いやだろうけど従ってくれ、そうも言った。だから彼はしんがりをつとめるのだと、私は思った。彼より遅れてはならない。今回彼は、潮目の写真をとるのだそうだ。三人艇の真中にいて、上からではうまく取れない写真を撮りに行くのだそうだ。しかし、その翌日、私は信じられない光景を見た。小泊港を出る三人艇の機関士たちは、息を揃えてハイスピードで漕ぎ出したのだ。二人艇を一人で乗る私に、とても追いつけるスピードではない。裏切られた。